書評:「フランクリン自伝」⑤:清潔、平静、純潔、謙譲
これまでベンジャミン・フランクリン著「フランクリン自伝」をたびたび紹介してきた。
その中でも十三徳について一つ一つ取り上げてきたが、今回で最後になる。
これらの徳を取り上げたのは、何よりも私自身がさらに実践していくための復習を兼ねることが理由だ。
本を読んだ直後は誰でも高尚な気持ちになり、俺も頑張ろう、と気持ちを新たにする。
しかし、そのモチベーションは実践を継続しなくては続かない。
十三徳でなくとも、それぞれが心に誓うものがあるだろう。
それを定期的にアウトプットするなどして確認することは、より良く生きようとする者には欠かせない習慣だと思う。
- 1.清潔「身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず」
- 2.平静「小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ」
- 3.純潔「性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の不安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず」
- 4.謙譲「イエスおよびソクラテスに見習うべし」
- 5.おわりに
1.清潔「身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず」
不潔であることが良い結果をもたらすことは、まずない。
不潔であればあるほど健康には悪影響が出るし、普通の人間であれば不潔な人間には不快感を持つ。
自分が問題ない、と思う汚れであっても、他人はそう受け取らないことも珍しくない。
”黙認すべからず”ということは、どういうことだろうか。
これは不潔である状態について、自覚があるにも関わらず放置するな、ということだろう。
不潔な状態に自覚がある状態は、自信を喪失させる。
普段他人からの目を気にしない人間でも、不潔である自覚があれば、他人からどう思われるかを気にせずにはいられなくなるだろう。
そのような状態では、他の徳を実践することも危うくなりかねないのではないだろうか。
また少しの汚れなら構わないだろう、と目をつむればその許容範囲はどんどん広がっていき歯止めが効かなくなる。
割れ窓理論と同じであり、最初の段階でその芽を摘むことが大事だ。
「不潔はダメだ、身ぎれいにしておけ」
これは当たり前の話ではある。
しかし意外にもこの徳は10番目に位置する。
恐らくフランクリンはこの徳を身につけることは、想像以上に困難である、と考えていたのではないだろうか。
そもそも不潔ではない状態、清潔である、ということはどういう状態か。
体は、頭髪、髭、歯、爪、体臭などのケア。
衣服は、服に付いた泥、油、染みなどの汚れを洗濯し、シワ、ほつれ、穴などを
ないようにしておく。
住居は、ほこりなどの汚れ、壁や設備などの壊れがないこと。また部屋が不必要
な不必要なもので溢れていたり、散らかり放題になっていないこと。
改めて考えると多岐に渡る。
普段これらのことを完璧にこなしている人間はどれだけいるだろうか。
仕事に対して勤勉であればあるほど、これら身の回りのことは疎かになっている人も多いのではないだろうか。
フランクリン自身、特に印刷工の時代は朝も夜もなく働き詰めだったという。
そのような状態で清潔を維持するには、他の多くの徳、特に規律と勤勉、を身に着けている必要があるだろう。
2.平静「小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ」
この徳は「中庸」の徳と被る部分もあるだろう。
平静においては怒りだけでなく、不安や恐怖、動揺、失望など様々な悪感情が含まれてくる。
通底するのは「反応的にならない」ということだ。
7つの習慣に
「影響の輪」と「関心の輪」
という考え方がある。
影響の輪とは、自分が行動することで何らかの影響を与えられる範囲を指す。
関心の輪とは、単に自分が関心を持っている範囲を指す。
この二つの輪の理想形は、それぞれが完全に重なり合っている状態である。
自分の影響の範囲内のみに、自分の関心が完全に向いている状態だ。
この状態は自分の興味、リソースを、完全に自分が影響を与えられる部分にのみ振り分けることができる。
そのため、どんどん自分の影響の輪が広がっていくのだ。
逆に自分の興味が影響の輪から外れていると、自分が変えようのないことにムダなリソースを割いていることになる。
その状態では影響の輪は広がらず、変えようのないことに関心が注がれ、不満ばかりがつのる悪循環になる。
平静を維持するにはどうすれば良いのか。
それは不安や恐怖を自分から追い出すことだが、大抵の人はそれが難しい。
それを端的に述べるなら
自分にはどうしようもない、と思い悩む限り、不安や恐怖はなくならない
ということだ。
自分の影響の輪から外れた物事に、不安や恐怖を感じるなら、それを根本的に解決することは不可能だ。
であれば、不安や恐怖を感じるだけ損になる。
不安や恐怖の元は、その物事に関心を向けているからだ。
例えば、世界情勢、環境問題、芸能人のゴシップ、重大事件……メディアで取り上げられるニュースのほとんどがそうだ。
そんなことに関心を向けてばかりいるから、無用な不安や恐怖を感じてばかりなのだ。
逆に、自分の影響の輪の中にだけ関心を向けておけばどうなるだろう。
影響の輪の中の問題は、自分が実際に影響を与えることが可能だ。
問題は細分化可能で、困難な問題であっても少しずつ、現実的な努力によって改善が可能になる。
問題を分析し、解決法を探し、具体的行動を細分化し、一つずつ実行する。
そうすれば時間はかかっても状況が改善できる。
そのような状態であれば、そこにあるのは「不安や恐怖」ではなく「課題」があるだけだ。
不必要に平静を失うことはなくなるだろう。
3.純潔「性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の不安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず」
非常に長い項目だが、性欲に関する徳だ。
古今東西あらゆる人間の失敗の一つが異性関係だ。
動物的な本能であり、これをなくすことはどんな人間でも不可能だろう。
それだけにトラブルの大きな元になりえ、この欲とどうやって付き合っていくかは誰もが考えなくてはならない。
ここは男に限った話をしよう。
基本的に男は、射精すればするほど、気力と体力が減退する。
セックスだろうとオナニーだろうと同じだ。
次の日の朝は目覚めが悪く、寝不足気味。
日中も気だるさが残り、万事において気力が出ない。
そのまま夜になり、ムラムラきて衝動に負けてしまえば、次の日も同じことの繰り返しだ。
しかし、毎日のような射精が当たり前の習慣となっている人は、射精をしていない通常の体調をここ最近感じていないことがあると思う。
終始気だるい状態が当たり前になっていて、その自覚がない、これは非常にもったいない話だ。
まず、射精をしていない肉体の健康さを思いだしてほしい。
そのために推奨するのが
である。
パートナーがいる場合は完全に射精禁止は難しいが、オナ禁なら可能だ。
人にもよるが、一週間続けられれば、体調の変化が如実に現れる。
オナ禁はあまり学術的に研究されてはいないだろうが、私は体調がよくなる効果が確実にあると思っている。
目覚めがよくなり、日中も眠くならない。
何事にもエネルギッシュに行動でき、オナニー中毒状態とは全く比較にならない。
私はもはや中毒状態の体調を忘れたが、あの状態に舞い戻るのは二度とゴメンだ。
あまりにも私の私見ばかりになっているが、これに類することが書かれている本が一冊思い当たる。
「思考は現実化する」である。
同書の15章には
強烈な性的エネルギーを願望実現や目標達成のエネルギーに転換せよ。
強烈な性本能ほど人を行動に駆り立てるものはない。
と頭にあり、「性的なエネルギーは浪費されている」との項において
成功を遂げた著名な人々はほとんどが40~50歳になるまでは成功できていな
い。
若い時は性的エネルギーを肉体的に発散するばかりで浪費しきってしまってい
る。
と記載がある。
要は若い内はセックスないしオナニーに耽るばかりで、気力が満ち足りていなかった、ということだろう。
この傾向は恐らく現代も同じで、40歳にもなれば性欲も落ち着き、仕事などに集中できるようになる。
逆に言えば若いときからオナ禁の習慣を付けてさえいれば、他人が浪費している分のエネルギーを使える分、大きなアドバンテージになりえるのだ。
4.謙譲「イエスおよびソクラテスに見習うべし」
最後の徳である謙譲。
どんなに自分が栄達しようとも、思い上がるな、ということだろうか。
しかし最近聴いたVoicy内のラジオ「荒木博行のbook cafe」において「ソクラテスの弁明が紹介されていた。
ここで語られていたのが有名な、無知の知、についてである。
詳しくはラジオを聴いてほしいのだが、無知の知について一般に知られている解釈の誤解や、どれだけソクラテスが慎み深かったか、という点を知ることができるだろう。
私は現状思い上がれるような境遇にはない。
日々挑戦と失敗の連続で、成功者などとは誰もみなさない。
それでもその目標に向けて進む以上、いずれ誰かがそうみなすかもしれない。
そんなときでも決して初心を忘れてはならず、戒めなければ足元を掬われる。
常に低姿勢で謙虚にいこう。
結局はそれが平静であることにも繋がるはずだ。
5.おわりに
フランクリン自伝にはベンジャミン・フランクリンの生涯が綴られている。
決して順風満帆ではなかったし、フランクリンは超人ではなかった。
それでも一人の人間が、どうやって成功の階段を一歩ずつ上がっていったのかが、書かれている。
そうできた理由はなによりも
人格を磨き続けたこと
この点に尽きると思う。
人格は目に見えず、金では買えず、本人の鍛錬によってのみ培われるものだ。
だからこそ最も価値があるものだと、私は思う。
読んだことのない人は是非、手にとってもらいたい。