DIY大家の覚え書き@TOYAMA

富山にて不動産投資で経済的独立を目指す戦いの記録

なぜ大家をやるのか、何のために経済的自由を求めるのか。

 何のために大家をやるのか。

 最も根源的な問い、人それぞれ理由や目的は違うだろう。

 親からの相続で始めた、という人以外は自分で決意してこの世界に飛び込んだと思う。

 多い理由はやはり、金だろうか。

 金を得ることで、自由を得ることかもしれない。

 私もその例に漏れず、家賃収入を得て経済的自由も得ることだった。

 その決意や目的は現在も変わっていないが、その動機はもっと深く掘り下げることができるようになってきた。

 

・経済的自由を何のために得るのか。

 何をもって経済的自由と呼ぶのか。

 私の認識では

   自分の労働力を売らずとも、生活を維持できるだけの経済基盤を持っている状態

のことだ。

 会社勤めをせずとも自分の資産、不動産からの家賃収入で生活費を賄え、かつ貯金も十分にできる状態。

 これを得るにはいくらの家賃収入が必要なのか。

 これは個々人の生活コスト次第になり、慎ましく暮らすなら月10万円とかでもできる人はいるだろう。

 ただ勤め人をしていて、現在の生活レベルを下げたくないのであれば、現在の収入分が目安にはなるだろう。年収と同額の年間家賃収入があればよいのだ。

 

 では経済的自由を得ることでどうしたいのか。

 会社を辞めたいのか。

 これも人によって異なるだろう。会社の仕事が好きならやめる理由は薄いし、好きでなくともそこまでストレスにならないなら、続けても構わないだろう。

 私はどうか。

 現時点で、そこまで会社がストレスになっているわけではない。

 ただ仕事にやりがいは見いだせていない。

 惰性で続けることはできるだろうが、この生活をずっと続けるつもりもない。

 会社を辞めれば時間はできるだろう。

 ではその浮いた時間を何に使いたいのか。

 ニートのようにずっとゲームをしたいのか。

 最初経済的自由を知った時は、そうできたらどんなにか楽しいだろう、と思っていた。

 しかし今はゲームになど時間を使うことがもったいない、と思うようになった。

 そんな時間があれば少しでもためになる本を読みたい、勉強したい、と。

 これは実際に経済的自由を得れば変わる価値観なのだろうか。

 今はその目標に向けて邁進しなければならず、ゲームなどにうつつを抜かしている場合ではない、と分かっているから惹かれないのだろうか。

 

 現在ハッキリ言えることは

    主体的に生きたい

ということだ。

 この主体的に生きる、とは名著、七つの習慣における「第一の習慣」である。

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

 

  人が憧れる生き方は色々あるだろうが、そのような生き方に共通しているのが、この主体性である。

 これは勤め人をしている限り得られないもの、とは言えないだろうが、自分でビジネスを持ち、自分で稼いでいる人間であれば誰もが持ち合わせているものだと思う。

 では主体的であるとはどういうことか。

   ・自分の行動に100%の責任を持って生きること。

   ・自分の心に嘘をつかないこと。

   ・自分を信頼できること。

   ・自分の心と行動を一致させられること。

などだろうか。

 

 私の勤め人生活において最も嫌気の差すことは

    上司、同僚からの評価を気にして、自分の心にもないことを言い、または言い

   たいことを言えず、我慢するだけ。

そんな状況である。

 なぜこんな自分の心に反する行動をとるのか

    上司に嫌われたら評価が下がるかもしれない。

    昇進できなくなるかもしれない。

    閑職に回されるかもしれない。

    会社にいられなくなり、失業するかもしれない。

    失業をすれば、金がなくなり、困窮するかもしれない。

といった恐怖が沸きあがるからだ。

 そしてこの恐怖の中でも、特に根源的なものが

    貧困に対する恐怖

である。

 この「貧困に対する恐怖」というものは、これも名著

 において、人にとって最大の恐怖、として挙げられているものだ。

 結局収入を会社の給料に依存している以上、会社から見捨てられれば、その収入の道は途絶え、ゼロになる。

 そうなれば私は、食うことにも困り、自尊心は地に落ち、心が絶望に支配されることは想像に難くない。

 勤め人としての身分だけで生きるとは、そういうことだ。

 

 私は、何とかしてその現状を打破したかった。

 大家の道を志した当時、とにかくその一心だった。

 現時点において、その目標への道はまだ半ばではある。

 だが、かなりの手ごたえを感じている。

 このままいけば何とかなるはずだと。

 そしてただ勤め人としてだけ生き、それ以外の生き方など考えも及ばず生きていたときでは、考えられないほどの充実感を得ている。

 まさに、主体的な人生を生きている、と言えるだろう。