青木雄二先生によるマルクス論:労働者から資本家になるには
青木雄二先生の代表作「ナニワ金融道」が、資本主義ゲームを上手く攻略する上でいかに役立つかは以前紹介したとおりだ。
私はその後ナニワ金融道だけでなく、青木先生のエッセイなどの著作を買い揃え、読み漁ってみた。
その中でも特に先生の思想が凝縮された一冊が
である。
この本はマルクスの思想を分かりやすく解説しているので、それを学ぶ上でも取っつきやすい一冊だ。
1.労働者は誰もが資本家に搾取されている
まず世の人間というものは
資本家と労働者
に大別することができる。
この間に中間層はなく、いわゆる「中流」などといった社会階層は幻想に過ぎない。
勤め人である以上は、どんな高給取りでも労働者に過ぎない。
その労働者は全員が
資本家に多かれ少なかれ、タダ働きをさせられている
ということになる。
というのも労働者の一日の労働時間が8時間であるとして、日給分の労働は最初の1~2時間で賄えてしまうからだ。
では残りの労働時間分の利益はどこへ消えるのか、それは当然資本家の利益となっている。
この労働者の給料分の労働を「必要労働」と呼び、残りの労働を「剰余労働」とマルクスは名付けている。
労働者がいくら働いても暮らし向きが楽にならない原因は、労働に対する給料が労働者の生活を維持するだけの最低水準までしか与えられないからだと言う。
低賃金労働者だろうが、高給取りのエリートだろうが、与えられる給料は労働力の再生産に必要な経費分しか貰えない。
何も考えずに目の前の労働を続けるだけでは、一生資本家側には行けないのだ。
ではどうすればよいのか。
まずは自分の労働に対し搾取されない状況に身を置く必要がある。
人に雇われず、独立し、対等な相手とだけ取引をすればよいのだ。
もちろんこれは口で言うほど簡単ではない。
独立するにもある程度の資本が必要だし、自分の能力がなければ利益が出ず飢えることにもなるからだ。
だが資本家側になろうと思えば、この道は避けて通れない。
私も勤め人であり給料を貰ってはいるが、これは自分の労働力を維持する最低限度の分でしかない。
どんなに会社の仕事で成果を上げ利益を出そうが、貰える分に多少の色が付く程度で、出した利益は資本家に吸い取られるのだ。
だが不動産の家賃収入は給料とは性質が異なる。
自分の能力を発揮して利益を十分に出すことができれば、その利益は100%自分に返ってくる。
反面、下手を打って損をすればその損益も100%自分が負わなければならない。
自分でビジネスをやる、ということは「ハイリスク・ハイリターン」である。
だが勤め人だけで金持ち、資本家になることは決してできず、大なり小なりリスクを取らなければならない。
2.労働から疎外された労働者の不幸
「金さえあれば今の会社なんて辞めてやるのに」
そう思っている勤め人は少なくない。
だがそれを実行できる人間はほとんどいない。
その理由としては先に述べたとおり、労働者の給料は自分の労働力を再生産できるギリギリの水準しか貰えないため、資本の蓄積ができない。
そのため生活を維持するため、不本意ながら今の仕事にしがみつくしか選択肢がないのだ。
だが会社を辞めたくなる、ということはその労働に価値を見いだせていないことになる。
それは何故なのか。
マルクスは次のように書いている。
「労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は頽廃化する」
「労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎをもたない。だから彼の労働は、自発的なものではなく強いられたものであり、強制労働である」
仕事とは高度化すればするほど、分業化が進む。
大企業であればあるほど、個人が成す仕事は大きな仕事の一部部分でしかない。
カレーという商品を作るために、一人はタマネギを切る係、一人は具材を煮込む係、という具合で個人個人はその一つの係だけを担当させられる。
そうなると労働者はその商品を作り、価値を生み出すという労働の本質からどんどん切り離されることになる。
そのために労働の価値を実感できず、労働は強制的なものとなる。
金は貯まらず、労働の価値も実感できず、幸福を実感できない労働者は酒やギャンブルに走る。
刹那的な自暴自棄の行為により、一層金がなくなる悪循環である。
ここから抜け出すには、給料から少しでも貯蓄に回しタネ銭を用意する。
そしてタネ銭を使って、自分のビジネスを作り上げる。
自分のビジネスであれば、その労働から疎外されることは考えられない。
上手く利益が上がれば、その利益は誰にも搾取されないので資本の蓄積が進み、資本家への道に繋がるのだ。
3.唯物論と観念論:宗教を信じてはゼニは儲からない
どんな人間でも自分の労働を搾取されたくない、できるなら自分も資本家になりたいと思う、私もそうだ。
だが青木先生はゼニを儲けたいなら大事な「踏み絵」があるという。
それは
神や霊魂などいない
と誓うことだ。
宗教やスピリチュアル的なものを一切ない、と切り捨てられるか。
現代の日本社会において宗教的なものは、昔と比較すれば力を失っているといえる。
しかし、それでもなお100%宗教などを信じない、完全無神論者になれる人間はどれほどいるだろうか。
特定の宗教を信仰していなくとも、日本の社会にはあらゆる場面でそういった要素が文化として埋め込まれている。
家には仏壇と神棚があり、亡くなれば葬式をして墓に入る。
日常生活でも罰が当たるとか、縁起が悪いとか無意識のレベルで行動を制限されることも少なくない。
なぜ宗教やスピリチュアルなものがゼニ儲けに邪魔なのか。
それは宗教とは古来から
支配者が大衆を洗脳するための道具
であるからだ。
現実のあらゆる苦難を神が与えた試練であり、それに耐えれば天国へ行けると説く。
それで支配者は大衆から利益を吸い上げる。
武力などで抑え込むより圧倒的に楽であり、これで支配者の都合よく大衆を動かせるならこれほど便利な道具はない。
「神はいない」と考えること、これを「唯物論」という。
すべての根源を物質と考え、精神の質剤を否定すること。
反対に「神はいる」と考えること、これを「観念論」という。
現実に基づかず、頭の中だけで作り出した考えのこと。
マルクスは
「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を成約する。人間の意志が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する」
「ある時代の支配的な思想は、つねにその支配階級の思想にすぎなかった」
と書いている。
つまり、社会のあり方や政治体制は、道徳や宗教によって決まるのではなく、その基礎となるゼニ、つまり経済構造によって決まる。
そしてその社会を支配した者にとって都合の良い思想が、社会を形作るということになる。
現代において分かりやすい宗教が幅を利かせることはなくなった。
しかしそれ以上の洗脳がテレビやインターネットなどのメディアを通して大衆に届けられている。
支配階級である大企業が流す洗脳にかかってしまえばゼニを儲けるどころではない。
経済的に困窮し、一生貧乏人のまま這い上がることはできない。
しかし当の本人は、自分は中流である、と貧しい自覚すらないかもしれない。
こんなに恐ろしいことがあるだろうか。
現代の洗脳は過去の宗教的なもの以上に、社会に入り込んでいるといえる。
この洗脳にかからないためには、何よりも
自分の頭で考える習慣を持つ
ことが大事だ。
どんな情報も鵜呑みにせず、自分で分析し、自分で判断・決断する。
すべての責任を自分で負う覚悟を持たなければ、洗脳する側の都合よく流されるだけだ。
自分でビジネスを興し、成功しようと志すなら絶対に唯物論で生き、自分の頭で考える習慣を付けなければならない。
4.おわりに
青木先生の著作はどれも20年近く前のものだが、今の時代に読んでも古びていない。
それは人間というものの性質が全く変わっていないことの証であり、どの考えも現代に通用するものばかりだ。
マルクス経済学を分かりやすく噛み砕いて解説してあるので、マルクスを学ぶ入り口としても非常に役立つだろう。
先生の著作は多く、安く手に入るのでナニワ金融道を読んだ後は是非手にとってもらいたい。