書評:「フランクリン自伝」④:誠実、正義、中庸
前回までの「フランクリン自伝」の記事。
今回の三徳はこれまでの徳と比べて抽象度が高く、実践も容易ではない。
これまでの徳を備えていなければ、身につけることは困難だろう。
しかし徳の習得がどの段階であっても、身につけようと努力しない限り得られる徳ではない。
- 1.誠実「詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出すこともまた然るべし。」
- 2.正義「他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすなべからず。」
- 3.中庸「極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。」
- 4.おわりに
1.誠実「詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出すこともまた然るべし。」
「嘘をつくな」という点がまず分かりやすいだろうか。
嘘を事実と異なる話を故意に他人に話すこと、とするならば基本的に相手に害を与えるものだ。それを戒めることは当然正しい。
ただここでは「害するなかれ」としているので、他人に対し配慮するためにあえてつく嘘までも禁止するものではないだろう。
また「無邪気、公正」としている部分は、他人への悪口が当てはまるだろう。
悪口は嘘に限らず、事実を述べることでも悪口になりえる。
そのことを話す意図が問題で、他人を貶めようと考えることが無邪気とは反対の行為である。
他人を害する目的でなくとも、自分の自己顕示欲や承認欲求を満たすために発する言葉も、無邪気で公正とは言い難いだろう。
このあたりは「沈黙」の徳が高まっていないと、実践は難しくなるだろうか。
誠実であると自分で自信を持てるなら、心は平穏を保つことができる。
それは非常に楽な状態だ。
しかし誠実さを守り続けることが、いかに難しいかは誰もが知るところだ。
なぜ誠実であることは難しいのか。
それは具体的な損得が絡んできた場合、誠実さはその損得感情に簡単に敗北するからだ。
大抵の場合、誠実であるという選択を選んで、即座に利益が得られることは少ない。
むしろ誠実であることを放棄したほうが得をする、という場面が往々にしてある。
例えば、電車で理由なく優先席に座る、といった場面だろうか。
モラルに反する行動であることを知っていながら、即物的な利益を得るために誠実さを捨てる。
しかし
長期的な目線に立てば誠実であることの方がはるかに大きな利益を得られる
だろう。
不誠実であることを普段から選んでいれば、他人からの信頼など得られるわけがない。
程度の差こそあろうが、小さな不誠実さを他人に隠し通すことなどできない。
また普段から不誠実な行動を積み重ねていることを、もっともよく見ているのは自分である。そんな自分自身を信頼することは、もっと難しい。
他人以上に自分が信頼できなくなるのだ。
私がこの「誠実」という徳で考えるのは、副業として大家業をしていること自体だ。
当然会社には言っていない。
これは誠実といえるか、と問われれば誠実ではないのだろう。
会社に害を与えているか、といえば特別害はない、と思いたい。
しかし、職場の仕事に私自身が集中していない、と捉えれば害はあるかもしれない。
かといって正直に報告することが「自他にとって益がない」ことも明らかだ。
このように考えていると結論が出ないのだが、どうやら私の中でこの徳は勤め人を卒業しない限り、完全に身につけることは困難だ、ということだ。
2.正義「他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすなべからず。」
他人へ害を与えない。
他人の利益を傷つけない。
商売をしている以上、当然競合、ライバルはいるはずだ、それと戦うこと自体を禁じているとは思えない。
ただ思いついたのは取引におけるWIN×WINの関係だ。
相手を負かすしか考えないのではなく、常に相手と手をとりあえないか、お互いの利益になりえないかを考えるということ。
世の中をゼロサム・ゲームと考えないということだ。
そもそも他人を利益を奪ったり、与えなかったりしようと思う、ということは世界をゼロサム・ゲームと捉えている証だ。
どんなに利益相反の関係に見えても、そこに他の選択肢がないか模索し、お互いの利益を最大化できるのが理想だ。
たとえそれが無理で、妥協せざるを得ないときであっても、自分が譲れるかどうかは自分の状態に左右される。
もし自分が借金にまみれていれば、譲るという余裕はなく、ただ自分の利益しか考えられないだろう。
だからこそ、先に節約や勤勉の徳が必要になるのだ。
衣食足りて礼節を知る、の典型的な例だろう。
3.中庸「極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。」
怒りのコントロールについての徳。
感情に任せて怒りを爆発させて、物事が好転することはほとんどない。
どんなに自分が正しく、相手が明らかに悪かったとしても、怒り発散することで自分の利益が最大化する、などといった状況はまずない。
その点において怒りを慎むべき、という考えは誰もが納得するところだろう。
怒りのコントロールは、これも「沈黙」の徳が役に立つだろう。
怒りの感情が芽生えた場合、そのピークは約30秒だという。
相手に何か不愉快なことを言われても、直ちに反論するのではなく、30秒沈黙するのだ。
そうすればかなり冷静になれる、自他に益のない言葉を発するくらいなら、沈黙しているのが最善の策なのだ。
次に極端について。
思想信条において、極端な偏りをなくせ、という意味にもとれる。
どんなことでも左右の極論がある。
大抵それらの極論は過激で分かりやすい。
極論の信奉者は熱狂的で攻撃的、絶えず何かに怒りをぶつけている。
中庸とは、単に極論と極論の中間を取れ、ということではなく
常に自分の常識を疑え
という戒めではないだろうか。
大抵の人間は自分が正しいと思っているものだ。
だからこそその正しさに常に疑いを持ち、他人の意見に耳を傾ける姿勢を持てる人間は極端には染まらない。
相手の言っていることも正しいのかもしれない、という視点に立って一度は考える。
そうすれば自分の考えを客観視することができ、独善的になることを防ぐこともできる。
4.おわりに
繰り返しになるが、これらの徳を実践することは簡単ではない。
物事に対し動物的に反応する人間は、これらを身につけることはまず無理だろう。
最初は実践が無理でも、常に心にこの徳を留めておく。
失敗したと思ったら、なぜ実践できなかったのか、常に反省する。
他の徳を高めながら、その相乗効果で今回の三つも少しずつ強化していく、それしかない。